5. ティピカの木 大西洋を渡る
17世紀(1600年代)までにヨーロッパ各国にコーヒーがひろまっていました。オランダが自国の植民地でコーヒー栽培を拡大していく一方で、フランスはコーヒーノキを自国の植民地に導入する機会を伺っていました。何度かの失敗の後、オランダからフランスに贈られたコーヒーノキをカリブに海のマルティニーク島に移植する試みに初めて成功したのが、ガブリエル・ド・クリュー(1687-1774)というフランスの海軍将校です。
ド・クリューがコーヒーの移植に成功したのは1723年。(図中、上の赤線がその軌跡です)
この頃の時代背景を少し説明します。
フランスは1715年まで続いたブルボン王朝ルイ14世の治世でした。ルイ14世の時代には絶対王政と重商主義という政策のもとで大いに栄え、ヴェルサイユというバカでかい宮殿が建てられたりしました(1682年)。ルイ15世の治世に移った1720年代頃もこの富を引き継ぎ豊かな時代が続いていました。現在も営業している、パリで最も古いカフェ「ル・プロコップ」の開業(1689年)などに始まり、ヨーロッパのコーヒー需要が爆発的に高まっていた頃。多くの人がコーヒーをカリブ海に移植することを試みました。
ちなみに、この頃日本では、浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)の仇を晴らした赤穂事件(1703年)、徳川吉宗の将軍就任(1715年)といったイベントがあった頃です。我々がよく知る時代劇の舞台になっている時代ですね。
ド・クリューがアメリカへコーヒーを運んだ物語は彼の自伝によるものなので、どこまでが真実かは分かりません。それでもコーヒー伝播の物語のハイライトであることは事実でしょう。これから、この旅を物語形式で追ってみます。
1720年頃、フランス領マルティニーク島に歩兵大尉として赴任していたド・クリューは、パリに一時帰着した。そこで、人々が大量にコーヒーを消費しているのを見たのである。そのコーヒーは、オランダが植民地で栽培しているものだ。それなら、マルティニーク島でもコーヒーを栽培することができるのではないか。彼はそう考え、コーヒーを赴任地に移植するというアイデアを計画に移した。
18世紀始めに勃発したスペイン継承戦争で、オランダとフランスは敵対関係にあった。戦争終結時に、仲直りのしるしとしてアムステルダム市長からルイ14世に1本のコーヒーノキが贈らた(1714年)。この木が中南米にある多くのティピカ品種の祖先となる。持ち主がルイ14世からルイ15世に変わり、多少数を増やしていた木を分けてくれるよう、ド・クリューは管理していたパリの植物園にかけあった。
しかし、植物園としても王が所有する大切な木をそう簡単に渡すわけにはいかない。そこで、ド・クリューはフランスがコーヒーノキを贈られた時に受け取り役だった王の主治医、ド・シラクに目をつけた。(どのような手をつかったのかは分からないが...)彼は若い貴婦人を介してド・シラクに願い出を繰り返した。彼女の熱意にほだされたド・シラクはついにその願いを聞き届けたのだ。
1723年、ド・クリューは手に入れた苗木を携えてフランス北西にある港ナントから出港した。この時の年齢は36歳くらい。大切なコーヒーの木は、日光を浴びることができて、保温性に優れたガラスのケースに入れて持ち込まれた。乗客の一人は、この木を横取りしようとしたが、彼はなんとかこの企みを回避することができた。その後も彼の乗り込んだ船は多くの苦難に見舞われる。モロッコ沖では、海賊船に襲われ、ようやく難を逃れると、全員が海の藻屑になるかと思うような激しい嵐に襲われた。さらなる苦難は凪(風が吹かない状態。これにより帆船は身動きが取れなる。)だった。カリブ海付近の大西洋には凪が多く、海藻も多く漂う海域がある(俗に言うバミューダ・トライアングル)。この場所では、凪と海藻で身動きが取れなくなって水と食料が尽き、乗員が全滅した無数の船が幽霊船になって漂っていると言われていた。ド・クリューたちの船もこの海域に入っていたのであろう。
European Coffee History Engraving. (en.wikipedia), パブリック・ドメイン, リンクによる
ド・クリューの脳裏にも、幽霊船になっていった船のことが思い浮んだかもしれない。それでも、彼はその小さな木に貴重な水を与え続けた。
W・ユーカーズの著者"ALL ABOUT COFFEE"によると、彼はその時の様子を次のように記していた。
「水が不足し、1ヶ月以上にわたって、割り当てられたわずかな水を、私の希望の源であったコーヒーの木と分かち合った。その木はまだ幼く、成長が遅れ弱りかけていたので、いっそう手をかけて世話をしてやらねばならなかった。」
ド・クリューの献身のおかげで、その木は枯れずにマルティニーク等へたどり着き、島内にある彼の自宅の庭に植え付けることに成功した。木をイバラで囲み番人まで立てて大切に育てた結果、数年後には900gの種を収穫するまでに成長した。
以上がコーヒーノキ(ティピカ)がアメリカに渡る冒険の一幕です。この冒険から約35年後に、フランス植民地は10万トン近くのコーヒー豆を産出、取引の本場であった中東に逆輸出するまでになりました。ド・クリューはこの功績により、1750年にコマンドールという勲章を受賞します。
彼の運んだ木は、カリブ海諸島から中米に至るコーヒー農園で栽培されているコーヒーのルーツの一つになっています。以前、私がコスタリカの生産者の話を聞いた時には、これが我々のコーヒーのルーツだよと、ド・クリューの物語を語ってくれました。
以上がティピカの木が大西洋を渡ったストーリーです。お楽しみいただけたでしょうか?
次回のコーヒーのおはなしを楽しみにしていてください。
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[参考]
ウィリアム・H・ユーカーズ著 『ALL ABOUT COFFEE コーヒーのすべて』 (角川ソフィア文庫 2017)
白井隆一郎著『珈琲がめぐり 世界史が巡る』(中公新書 1992)
旦部幸博著『珈琲の世界史』(講談社現代新書 2017)
カップ:アラビア パラティッシ
コーヒー:グアテマラ エル・ディアマンテ ブルボン